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いばらき物語 〜常陸の国・常世の国茨城〜

 今回からスタートする「いばらき物語」。茨城に関わるモノ、人物、出来事などを取り上げ、ご紹介していく不定期連載のコーナーです。第一回目は、「なぜ茨城と呼ばれたか なぜ常世の国と言われたのか」をテーマにして常陸国風土記、茨城の民話などをご紹介していきます。
◆茨城と言う国の成り立ち
 常陸国風土記によると、まだ常陸国といわれる前、茨城一帯はただ新治、筑波、茨城、那賀、久慈、多珂の国と称していました。その後、我姫(あづま)の国と呼ばれる相模の国の足柄の坂から東の国々を八ヵ国に分け、常陸の国はその内の一つになりました。常陸の国は、
1.新治郡(中西部、小貝川中流 郡家=下館の東の協和町付近)
2.白壁郡(筑波山西北、真壁、明野あたり)
3.筑波郡(筑波山南西、毛野川(小貝川)郡家=筑波山南麓)
4.河内郡(今のつくば市周辺)
5.信太郡(南部、霞ヶ浦の西、竜ヶ崎市など、郡家=美浦村付近)
6.茨城郡(中南部、郡家=石岡市、国府も)
7.行方郡(霞ヶ浦内の半島部 潮来から北、郡家=玉造町南部)
8.香島郡(東南部、大洗町以南の鹿島灘、郡家=鹿島神社前)
9.那賀郡(中部、那珂川流域、郡家=水戸市南西)
10.久慈郡(北部、久慈川流域 郡家=水府村付近)
11.多珂郡(北東部、日立市以北、郡家=高萩市付近)
などに分かれていたようです。
F-15
ダイダラボウ像(大串貝塚ふれあい公園)
 
<<常陸の国>>
 常陸と名付けたわけは、
「人びとの往き通う道路が広い川や海の渡し場で隔てられず、郡や郷の境界が山から河へ峰から谷へつぎつぎに続いているので、近く通う(直道(ひたみち))ことができるという意味をとって名称とした」といいます。
 あるいは 「倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)が東の夷の国を巡察されたとき、新治の県を行幸して劣りすぎた時、国造ひならすの命を遣わされて、新しく井を掘らせると、流れ出る泉は清らかに澄んで心ひかれる美しさでした。そこで乗っていたお輿をとどめ、水を賞美しながら手をお洗いになりましたが、お着物の袖が泉に垂れて濡れ浸ってしまった。すなわち(袖をひたす)という意味をもって、この国の名称とした」ともいいます。
 また、別の一説には「茨城県は東の海から太陽がのぼり(ひたち)、神々が渡来する国なので、ひたちと称した」ともあります。いずれにしても、広大で豊か、人々が暮らすべくして暮らしている土地という事には間違いないようです。
<<常世の国>>
  その証拠に、常陸の国は常世の国とも呼ばれていて、その語源は
「面積はすこぶる広大で、境界もまたはるかに遠く、土壌は肥えに肥え、原野はゆたかなうえにもゆたかである。耕し墾かれた処と海山の幸にめぐまれて、人々は心やすらかに満足し、家々は充ち足りて賑わっている。いわゆる、海の宝庫・陸の宝蔵、膏したたる物産の楽土であるゆえに、常世の国と言われた」
  といわれているそうです。
  この世の楽園とも称される茨城県ですが、続きがあります。
「全体としてこの国の水田は上級のものがすくなく中級のものが多い。年のうちに長雨が続いたときは、たちまち稲苗が成熟しないという歎きがあり……」
  つまり、広くはあるけれど、収穫は天候に左右されやすいといった部分もあるようです。また南部は湿地帯が多く、田畑の質としては今一つ苦労したようですが、そのぐらいでは「常世の国」の名を返上するには及ばないようですね。
  今でこそ、まだ多くの田畑が残っているものの、道路やビルや家が立ち並んでいてそれらを見渡すことは難しいですが、実りの時期ちょっと小高い山、愛宕山や筑波山などに登ると、家々の間に黄金色の絨毯が海まで続いているかのように見えます。きっとその景色は1300、400年ぐらい昔からずっと変わらない感動なのでしょう。

常陸風土記の丘(石岡市)
 
◆“いばらき”というわけ
 いばらきという言葉の語源は、昔、国巣(くず。国栖とも書く。土地の言葉によるとツチクモ、またはヤツカハギという)という土地の人がいて、彼らは地中に穴を掘って住んでいました。彼らは大和から来た人々を見ると穴の中に隠れ、隙を見て物を盗んだりして、盗賊のような野蛮な暮らしをしていました。
  大和の人々は国巣が野に出て遊んでいる隙を狙って穴の中に茨棘をいっぱい入れておいてから不意に攻めたので、国巣たちは慌てて穴の中に戻り、茨棘に刺さったりしてちりぢりに死んでしまいました。
 その茨棘の意をとって「いばらき」といったそうです。 また、国巣を率いた山の佐伯、野の佐伯が国中を荒らしまわったとき、黒坂命がこの賊を討ち滅ぼそうとして茨棘で城を作ったので茨城という名がついた、という話もあります。
 さてこの国巣(くず)、土着の民であって大和の民でない人ということですが、前述のように大和の民の物を盗んで〜などというと、いかにも悪人のように思えます。しかし、それは風土記からの立場(大和の立場)から見た解釈だかららなんだろうなと思われます。大和という国に従わない、支配下にない人達だから、攻めた、滅ぼされたということでしょう。国巣の性質は頑固で猛々しく、反面陽気で正直だそうです。茨城県民の気質も近いような気がします。
 
◆数多く残る太古の足跡
 常陸国風土記には、国の起こりの他にもいろいろなお話が書いてあります。「ダイダラボウ」はほとんどの人が知っているお話です。朝房山を動かした話や大串貝塚の話、千波湖を作った話など、数多くお話が残ってます。現在大串貝塚付近は、ふれあい公園として整備され、ダイダラボウの像や縄文人の暮らしを紹介した施設などがあります。
  その他、くれふしの里古墳公園(水戸)、虎塚古墳史跡公園(ひたちなか市)、富士見貝塚古墳公園(かすみがうら市)など、茨城県内でも各所に古墳跡や古墳公園があります。また石岡市には常陸風土記の丘があり、古代家屋復元広場や鹿の子史跡公園などが整備されています。発掘された遺跡や復元された建物から、古代の人々がどういった生活をしていたのかがよくわかるようになっています。
<<財団法人石岡市開発公社 常陸風土記の丘事業所>>
茨城県石岡市染谷1646  Tel 0299(23)3888  Fax 0299(23)7173
   
前方後円墳(くれふしの里)   上からみた前方後円墳   真実のはにわ!?(くれふしの里)
◆いばらきの民話
 風土記に書いていないお話も数多く残されています。その多くの話が動物や自然に関わるお話です。茨城の民話を読み進めていくと、他県にも似たような話があることに気づきます。小豆洗いの話や頭に口のあるお嫁さんの話、姥捨ての話、動物が恩返しする話。また、養蚕が始まった謂れだとか、猿のお嫁さんの話(個人的にはかちかち山に似てるような気がしました)など、枚挙に暇がありません。ダイダラボウにしてみても、各地に巨人伝説は残っています。
  はるかな昔、文字を保存する技術もなかった頃なので、話は口伝。地面に境界はあっても話に境界はありません。人が行くところ、どこへでも繋がっていきます。遠い国のお話が、つい隣の郡であったかのように話されることもあったんじゃないかと、想像の翼を広げるのはとても楽しいことです。茨城がもっと身近に感じられると思います。
  風土記を読み、古墳公園などに訪れて、古の常世の国に心を遊ばせてみませんか?
  最後に一つ、民話をご紹介します。
   
朝房山入り口   ハイキングで登れます   朝房山遠景

<<赤小豆洗いぎつね>>
  むかし、細谷通り町(水戸市)の新舟渡と御蔵との間の川ばたに、赤小豆洗いということろがありました。
  そのあたりにキツネがすんでいて、雨の夜など、ざっく、ざっく、と赤小豆を洗う音をたてながら、「赤小豆磨ぎましょか、人取って食いましょか」とうたって人びとをたぶらかしておりました。
  あるとき塩谷五郎次という武士が、夜ふけに庭先で小便をしていましたところ、垣根の木かげから狐が出てきて、「赤小豆磨ぎましょか、人取って食いましょか」とうたいながらひょんひょんひょんひょんはねあがっておどり出しました。
  五郎次もこれを見るとつりこまれて、同じように両手を高くさしあげ手首を折り曲げておどり出しましたから、狐はうまく五郎次を化かすことが出来たと思ったのでしょう。ひょんひょんひょんひょんおどりながらだんだん五郎次に近づいて来ました。
  五郎次もおどりながら間合をはかって、狐がはねあがったところをさっと刀でなぎはらいました。狐は、「ぎゃっ」と悲鳴をあげて消えました。五郎次は後も向かずにそのまま家に入り、翌日さがしましたら、頭のはげた老狐が胴を真二つに切られて死んでいました。(原話『水府地理温故録』)より

参考:風土記-吉野裕訳、日本の民話27茨城篇、日本の民族茨城    (隊長)


 

 
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